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カルロス・トシキ→岡村靖幸→尾崎豊⑧

 

1993年は嫌な年でした。

 

短大生の時に知り合った

大好きな人と

別れました。

 

梅雨が来て雨が降って

そのまま雨は

夏の間も降り続けました。

異常に雨の多い年でした。

 

時折止んでも曇り空で

私の心の中のようでした。

 私はどこを歩いていても

彼を探していました。

 

 家に帰ると

自室の電話を見つめていました。

 

 電話が鳴って

 出たら彼の声がして

 「今から会いたい。」

 そう言って以前のように

戻れるんじゃないかと。

 

 私は彼でなければだめでした。

 彼と初めて言葉を交わした瞬間から

わかっていました。

 

初めて会ったのに

ずっと会いたかった人だと思いました。

  

私はあの 口論をした営業マンと

付き合い始めました。

 

 あの後何度か食事に誘われ

仕事の話をしていたのに

そうなりました。

 彼は一回り年上の

妻子ある人でした。

私は不倫をしてしまいました。

 

私と彼がいる部署に常務が

常務取締役兼営業部長

として着任しました。

 

役員室にいれば

秘書が常務の細々した雑務や

身の回りのことなど 

お世話をするけれど

こちらではする人がいなくて

新人の私が

常務のちょっとしたお世話をするよう

上司に命じられまた。

 

時折

仕事中に視線を感じてふと見ると

常務が私をじっと見ている時がありました。

私は 常務の所縁の誰かに

似ているのだろうか?

結局最後までわからないままでした。

 

不倫というのは本当にたちの悪い恋愛で

続けているうちに

純愛と錯覚しそうになります。

 

当時は携帯電話も持っていないので

会うのが大変でした。

 

社内で人目を忍んで

今日は会うとか

今日は会えないとか

伝え合って

いつもの喫茶店で私は待ちます。

 

彼のほうが仕事が終わるのが遅いから

私は7時くらいから待ち始めて

8時とか9時まで待ちます。

 

彼に急な接待が入ったり

上司から飲みに誘われて 

断れない場合は喫茶店に

電話を入れてくれることもあったけど

できないことも多く

 

そんな時 私は 

喫茶店を出ようとするけれど

私が店を出た数分後に

彼が来たらと思うと 

後10分、もう10分と

待ち続けて

待ちくたびれて

喫茶店を出るのです。 

そんな時は

家に帰らず しばらく

街の人混みの中をブラブラと

歩いていました。

 

自分がどこに行けばいいのか

自分が何をしたいのか

わからずに。

 

人混みの中を歩いていたら

今にも彼が

「待たせてごめん。」

と 後ろから

私の肩を叩いてくれるのではないかと

そんなことを期待しながら

歩いていました。

 

でも そんなことは

一度もありませんでした。

 

この頃 街を歩いていると

よく尾崎豊さんの歌が流れていました。

 

I  LOVE  YOU  

とか

 OH  MY  LITTLE  GIRL

とか。

 

私は歩きながらぼんやりと思う。

 

 死んじゃうと

ずいぶんありがたがられるんだね。

不思議だね。

歌が独り歩きしてる。

 

カラオケに行くとね

男の人があなたの歌を歌うの。

そして 私に聞くの。

尾崎の歌で 何が一番好き?って

だから 私は答えるの

大好きだった歌。

そしたらね

 

なに?それ。

わからないって。

 

そしたら 私は

 悲しいような 嬉しいような

気持ちになってね

 

あなたのこと どれだけの人が

解っていたのかな?

私も解っていなかったよね。

 

私はこんなに若くて

自由なはずなのに

全然自由じゃないの。

 

どこにでも行けるはずなのに

どこにも行けないの。

 

どこに行けばいいのか

何をすればいいのか

わからない。

 

本当は 好きなのか

好きでないのかも

わからない人にすがって

 その人に

こっちだよって言ってもらって

なんとなく生きてる。

 

私は 私を

どこに置いてきたんだろうね。

 

あなたの歌を聴いていた頃

私は私だった。

 

自分を見失わないように

必死に守ってた。

 あなたの歌を聴きながら

祈ってた。

 

あなたの歌のような

美しい世界で

生きていけるように。

 

 あなたの歌のような

美しい世界を

手に入れられるように。

 

なのに今 私のいる世界は

薄汚れてる。

 

あの歌 聴いてみようかな。

そしたら

あの頃の気持ちに戻れるかな。

 

 けれど すぐに

その気持ちを打ち消す。

 わかっているから。

あの頃の気持ちには戻れない。

そのことが

私を何よりも深く

傷つけることも。

 

半年ほどして

常務は営業部長の役が解かれ

役員室へ戻りました。

もともと

営業部がある大きなプロジェクトを

抱えていて

常務はそのチーフとして

また お飾り的な 顔 として

こちらにいたので

プロジェクトが無事遂行され

任務完了で戻っていったのです。

 

けれど

私が胸を撫で下ろしたのも束の間

今度は私に辞令がおりたのです。

 

総務部 役員室への着任を命ず。

 

私は不倫をしていた彼とは

違う部署に異動になり

そこで

私と彼のことが露見してしまいます。

 

今思えば 露見したことは

私を安全な場所へと

導いたと思います。

泥沼にはまり込む前に。

 

続く

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

カルロス・トシキ→岡村靖幸→尾崎豊⑦

私は 短期大学に入学しました。

自宅から通っていましたが

離れて暮らす父の会社に

近い学校だったので

よく父に会うようになりました。

私は父の方が一緒にいて

安心できました。

父は自分の娘に対して

心配性ではあったけれど

過干渉ではありませんでした。

ひとりっ子の母とは対照的に

父は11人兄妹の

大家族で育った人でした。

上昇志向の高い人で

仕事人間で

娘達のことばかり考えている人では

ありませんでした。


離れて暮らしていたこともあり

少し年齢を重ねた私にとって

理想的な距離感でした。


母とも以前よりはうまくやっていました。

その起因として

私が母の言動に

振り回されなくなったことや

母が機嫌良く過ごすために

すべき、言うべきいくつかのことを

私が習得したこともあると思います。

また 父と母は長年に渡り

親族を巻き込んで

壮絶な争いをしていたのですが

年月の経過とともに

和解する方向になっていったことも

あると思います。


私はごく普通の

学生生活を送っていました。

バイトして、合コンに行って。

短大で 大好きな 女友達が

二人できました。

毎日一緒にいても

もっとずっと一緒にいたいくらい

大好きな 女友達。


バイト先の仲間にも恵まれ

バイトの休みには

キャンプしたり

海へ行ったり。


誰も彼もが私に優しかったのです。

誰も彼もが

私を大切に扱ってくれました。


優しい人に囲まれていると

人は優しくなれるもので

私は誰にでも

優しく接することができました。

あの母親に対してさえ。


短大一年の夏に

好きな人ができました。

合コンで知り合った人でした。

会って少し言葉を交わしただけで

激しく惹かれました。

会って少し言葉を交わしただけで

「私は明日にはこの人のことで

身体中がいっぱいになっている。」

そう思いました。


彼は四歳年上の大学生でした。

彼は私に好意を示しました。

彼はいつも私に会いたいと

電話をしてきました。


私はいつも彼に会いました。


彼は私を

他の男にとられたくないと言いました。


でも 私のことを

好きとは言いませんでした。

私は気づいていました。


彼には他に

付き合ってる人か

会ってる人がいることを。


私は構わないと思いました。

私が欲しいのは

彼の 私への気持ちだけだと思いました。

私は 私なんていりませんでした。

彼が私に会いたいと思う

気持ちだけで十分でした。


私の気持ちなんて どうでもいい。

私の気持ちがあるとしたら

それは 欲 だから。

彼を自分だけのものにしたいという

欲。

私の彼への気持ちを

そんなもので汚したくない。

そんな汚い気持ちを持った女だと

彼に思われたくない。

そう思っていました。


会うときはいつも

彼のアパートでした。

他の女の人の髪の毛が落ちていても

知らない顔して

彼には常に優しく接していました。


彼の好みの服を着て

彼の好みの髪型をして

彼の好みの化粧をして


今思えば

この頃 私にはもう

彼を好きという気持ち以外に

自分はどこにもありませんでした。


短大二年になりました。



その日

バイトが終わって

夕方自宅に帰り

テレビのニュースで

尾崎豊さんが

亡くなったことを

知りました。

私は ぼんやりとしていました。

私は ほっとしていました。


尾崎豊さんが

苦しみから解放されたことに。

彼の時間が止まったことに。

私にはわからなかったから。

彼がどうすべきなのか。

私は

尾崎豊さんの

前にも後ろにも

もう道はないように見えていたのです。


同時に私は激しく傷つき

打ちのめされてもいました。

一滴の涙も流さない自分に。


その夜私はベッドの中で

暗闇の中 目を見開いて

ずっと考えていたのを

覚えています。

流されるべき 私の涙の

在りかを。

わからないまま

朝を迎え

私はそっと目を閉じました。


一瞬 尾崎豊さんの姿が浮かびました。

裸で 体を小さくまるめて

横たわる彼。


彼は 帰って行ったのだと思いました。

母親の子宮の中に帰って行くように。

彼が 彼のままでいられる場所に。

ー これでよかったんだ ー


私は 眠りにつきました。


淡々と日々は過ぎていました。

私は就職活動をしなければ

なりませんでした。

私は母の勧める

母の仕事の縁故である

企業に就職を決めました。

母は満足そうでした。

仕事なんて なんでもいい

私はそう思っていました。

流されていればいい 抗わず。

そうすれば

なんの問題も起きないのだから。


卒業 就職

研修を終え 配属先が決まり

仕事を覚え 時間は過ぎていく。

私は 企業の花形といわれる部署へ

配属されました。


出世欲に燃えている

営業マンというのを

毎日 目の当たりにしていて

ある意味 息苦しい部署でした。

ある日 一人の営業マンが

私に言いました。

「miumiuさんは常務の親戚なの?」

私は驚いて

「違います。」

と答えました。

また別の営業マンは

お酒の席で酔って

「miumiuさんは常務の愛人なの?」

と言いました。

母の縁故で就職しましたが、

常務とはなんの関係もないはず。

縁故とはいえ

試験も面接も受けているから

どこかで会っているかもしれないけれど

私には顔すらよく知らない人でした。

私は 困惑していました。

私の知らないところで

何かがあるのだ と思いました。

企業というのは

そういうものなのだと。

私は気持ち悪さや

居心地の悪さを

感じていました。

けれど 私は

社会から落ちこぼれたくなかった。

どんなものにも

順応していける人間に

なりたかった。

私は必死になっていました。

つまづいたら 転げ落ちる。

ものすごく 張り詰めた心で

毎日仕事をしていました。


そんな中 大好きだった

4歳年上の彼と別れました。

別れたと言っても

私たちは付き合っていたわけでなく

ただ ひたすら 会っていただけの

関係でした。

でも友達関係ではありませんでした。

男女の関係でした。

彼は私のことが解らないと言いました。

もう会わないと彼は言いました。

今思えば、当然かもしれません。


彼からしてみれば

自分に他にも女性がいることに

気づいているだろうに

気づかないふりして

いつも 平気な顔して

にこにこ笑ってる女

そんな女を

本気で愛していいのかどうか。


数ヵ月前 彼が 突然

オープンハートのネックレスを

プレゼントしてくれました。

そしてこんなことを言いました。


「付き合うと

別れてしまうかもしれないし

別れてもう会えなくなるくらいなら

このままでいいのかなって

思ったりする。」


私は 「そうだね。」って

にこにこ笑っていました。


彼は私の気持ちを探っていたのです。

私はあの時言えばよかったのです。

「私はあなたが好き。

他に女の人がいるなんて 嫌。

別れてもう会えなくなるのは

嫌だけど それでもあなたと

ちゃんと付き合いたい。」


私にはそれができなかったのです。

彼を縛ると

離れていきそうな気がして

恐かったのです。

欲深い女と

思われたくなかったのです。


私は彼と別れて

本当になんにも

なくなってしまいました。



私は仕事に没頭していました。


ある日 ある営業マンと

口論になってしまいました。

私は 自分の立場を守ることに必死な

融通の利かない社員で

彼は少々 融通を利かせ過ぎな

営業マンでした。

私は 一歩も引きませんでした。


後日その営業マンから

「今日 仕事終わったら ちょっといい?」

喫茶店で待っているように

言われました。

待っていると彼はやって来て

私を小さな居酒屋に連れて行きました。

常連客ばかりがいるような

小さめの

でもとても繁盛しているお店でした。

彼は瓶ビールを頼んで私に

「さぁ飲んで飲んで」

とビールを注ぎな がら

ボソッと

「こないだは悪かったな。」

と言いました。

「いえ 私の方こそすみませんでした。」

私が言うと

今度はおどけたように大きな声で

「もー俺 忙しくて 機嫌 悪くて

悪くて ほんっとごめん!」

と言いました。

彼は私に

「常務の愛人なの?」

と言った営業マンでした。


彼は 自分のことを

話し始めました。

今の部署に来る前は

営業所にいたこと。

そこで所長と反りが合わず

やり合ってしまい

僻地の部署へ飛ばされそうになったのを

常務に拾われて

営業の花形である今の部署に

送られたこと。

私に 「愛人なの?」

と聞いたのは

役員と営業の男性社員が

ゴルフをした時に常務が

「4月にお前らの部に

いい娘が来るから。」

と 意味深に笑って言ったからだと

言いました。


「だからあの時あそこにいた人は皆

miumiuさんのこと

常務と何かしら関係のある人

と思ってるんじゃないかな。」


「私は常務になんの心あたりもない。」

私は力なく言いました。


「でももうすぐ来るよ 常務。

俺らの部署に。

常務取締役兼営業部長の肩書きで。

だからmiumiuさんを今の部署に

配属したんだよ。

自分が後から行くつもりで。

俺についてもそうだけど。」


私は 自分の意思や 努力に関係なく

水面下で動く力というものに

押し潰されそうな気持ちに

なっていました。


続く






カルロス・トシキ→岡村靖幸→尾崎豊⑥

高校生活で印象に残っていること。

入学してすぐ、ある部活を始めました。

同じ中学出身の女友達二人と

私との三人で入部しました。

入部してすぐ私は

その 一緒に入部した 女友達二人から

シカトされました。

女友達二人のうちの一人は

大の親友でした。

少なくとも私はそう思っていました。

シカトの理由は

私が部活の先輩に

目をかけられたからだと知りました。

私は部活を辞めました。


バイト先に他校の男の子が入ってきました。

それまでバイト先に男の子はいませんでした。

その男の子はバイトが終わると

私を家まで送りたがったり

私の高校に友達がいるらしくて

その友達に

私のことをあれこれ聞き出しているらしく

少し困っていました。


そのうち私は ある理由で

急にバイトを辞めることになり

男の子にそのことを告げることなく

辞めました。


それからしばらくして

私は入院していました。

脚を痛めて手術をすることになったのです。

病院で退屈な時間を過ごしていると

高校で同じクラスの女友達が

やってきました。

その子は私と同じ所で

バイトしていた子でした。


「あいつ来てるんだけど。

中に入れてもいい?」


突然言うので、よく意味が解らず

廊下の方を見ると

あのバイトの男の子が

不自然に下を向いて立っていました、、、

真っ赤なバラの花束を握りしめて。


彼は高校生であるにも関わらず

タバコは吸うし

学校で禁止されている

原付バイクに乗るし

夜は居酒屋でもバイトしてるし

けれど

バイトの仕事ぶりは真面目で

学校の勉強も手を抜いていないようで

テニスも一生懸命やってて


当時の言葉で言うなら

軟派なのか 硬派なのか

よくわからない人でした。


ただ バラの花束を握りしめて

不自然に下を向いている姿に

少し心が動きました。


中に入ってもらって

花束を受け取って

綺麗だなって バラを見ていたら


「お前がバイト辞めてから

何度も家に電話したんだけど

取り次いでもらえなくて。」


彼が ボソッと つぶやくように言いました。



私はその言葉を聞いた途端に


彼を好きになったのか

彼を好きになろうと決めたのか


どちらだったか覚えてないけど

そんな気持ちになりました。


私の母が 彼からの電話を取り次がず

そのことを私に隠していたことを知り

私が彼を好きになったら

母は どれだけ嫌な思いをするだろう

そんな思いが一瞬 頭を過りました。


母への仕返しのような気持ちが

なかったとは言いきれません。


でも それだけではなく

彼の持っている何かに

惹かれはじめてもいたと思います。

程なくして

私は彼と付き合い始めました。


休みの日は バスに乗って遠出したり

普段は 放課後 公園で待ち合わせをして

公園の階段に並んで腰かけて

他愛もない話をしていました。


私は 家族ではない男の人が

私のことを好きだと言ってくれて

私を必要と思ってくれている

そのことに

とても気持ちを支えられていました。


劣、劣、劣、数え続けて

私に染み付いてしまった劣等感が

少しずつ消えていくような

そんな気持ちでした。

彼のことをどれだけ好きだったか

そう聞かれたら

よくわからなかったと思います。


結局 楽しい時間は

そんなに長くはありませんでした。


彼は今の関係から

もう少し先に進みたいと言うようになり

私は どうしても

それができませんでした。

こんな 危なっかしい

不安定な

16歳と17歳という年齢の男女が

体の関係を持つことは

私には 絶対に考えられませんでした。

意味が解りませんでした。

話し合っても

平行線を辿るだけでした。


そして どちらが言うともなく

私たちは別れました。

高校二年の秋でした。


続く

カルロス・トシキ→岡村靖幸→尾崎豊⑤

それから


それから私はどうなったのだろう。


何をしていたか


細かいことは


あまり記憶がないのです。


ただ私が考えていたことは


覚えています。



私は 尾崎豊さんの歌がすきでした。


私にとって


尾崎豊さんの歌は


彼の中から生まれてくるもの


彼の苦悩 切なる思いが生み出す


祈りの歌でした。


そう 私は祈っていたのです


彼の歌を聴きながら。


けれど


私は思い始めました。


歌が彼を追いつめる


歌が彼を苦しめる


生まれない歌の代わりに


作りだすの?



生まれてこないなら

作らないで


生まれてこないなら

作らせないで


彼を傷つけないで

誰も


自分を傷つけないで

血を流さないと

生きてるって

思えないの?


そんなのおかしいよ。


あなたはあなたでしかないのに

あなたがあなたでなくなる。


くるしいよ。


私は

もう


あなたの歌は聴かない。



それから



尾崎豊さんの歌を聴くことを


やめました。


受験勉強をして


息抜きにラジオを聴いていました。


中学を卒業して


高校に入学して


それから「太陽の破片」が


リリースされました。


テレビやラジオから流れてくる


彼の歌。


私は意識的に


聴かないようにしました。


そのうち


彼の歌が聴こえてきても


何も感じなくなりました。


苦しくありませんでした。


私の心は


鉄のように硬くなっていきました。


ただ


彼の歌を聴いても


何も感じなくなった


今の自分を


昔の自分が


どこかから見ているような気がしました。



尾崎豊さんは

世間では

完全復活といわれていました。


その後も彼はコンスタントに


歌を作り続けていたと思います。


けれどそれらの歌は私にとって


歌ですらありませんでした。


それは尾崎豊さんの


命でした。


彼は


自分の命を切り売りして


歌を作っているようにみえました。



ー 死んでしまう ー


このままでは

彼は死んでしまう


そう 思いました。



その頃 私はよく


尾崎豊さんの夢をみました。


彼はいつも静かに泣いていました。


私は問いかける。


くるしいの?


彼はただ静かに泣いていました。




私は高校に通い


休みの日は


朝から晩までバイトをするという


生活をしていました。


バイトするって母親に言ったら


母親は泣きながら


わぁわぁ何か叫んでいました。


けれど関係ありませんでした。


硬くなった心は


ある意味 強かったのです。



バイト料は


CDや ライブチケットや


ライブに行くときの洋服や


そんなものに消えていました。


当時 私が 追いかけていたのは


地元出身で まだ駆け出しの


UNICORN


そう 奥田民生さんでした。


尾崎豊さんの歌を聴かなくなって


ラジオを聴いていると


よくUNICORNの曲が 流れてきました。


奥田民生さんは 地元FM局で


ラジオのレギュラー番組を持たれてて


私はそれを聴いていると


とても楽しい気持ちになれました。


奥田民生さんに興味をもったのは


彼が尾崎豊さんと同じ


1965年生まれだったから。


そして


奥田民生さんは


尾崎豊さんとは


全く異なる生き方をしている人に見えたから。


当時の奥田民生さんには


確固たるビジョンがありました。


今では考えられませんが


当時の奥田民生さんは


地元FM局のラジオ番組で


それを大いに語っておられました。


それはかなり具体的でした。


まだ無名といえなくもない


若いミュージシャンが


自分は必ずビッグになる


仲良くなりたい有名人の名を


実名で挙げ


その人たちと肩を並べる人間に


自分は なるのだと


声を大にして言うのです。


私は奥田民生さんの


無邪気で 強かで しなやかで


ひたむきともとれる その性質を


好むようになりました。



JITTERIN'JINNの曲も


よく聴いていました。


メンバー全員が無表情で


淡々としているところが


とても気に入っていました。


何も考えずに


リズムにのっていると


心地よくて


ライブにも行きました。



地元アマチュアバンドの


コンテストにも


よく足を運んで


お気に入りのバンドを見つけて


応援していました。



今思えば


当時の私は


ありとあらゆる


いろんなものに流されて


のみ込まれる生き方に


自分を馴らしていました。



そんな夏が終わり


ひとつの節目が来るのです。


延期に延期を重ねた


尾崎豊さんのアルバムが


リリースされました。


予約をキャンセルしなかったのか


できなかったのか


覚えていません。


私は学校の帰りに


レコード店に寄って


アルバムとポスターを受け取り


帰宅しました。


私は


自室で 制服のまま


床に座り込み


ポスターを少し見つめて


そして


破って捨てました。


アルバムは聴かずに箱に入れて


どこかへしまいました。


私は


尾崎豊さんの生き方を


忌み嫌っている自分に


気づきました。


尾崎豊さんに


苛立っていました。


そして


私は 私の中から


尾崎豊さんを消し去りました。


あれほど愛した


尾崎豊さんの歌を


私は自分で


消し去りました。


もともとそんなもの


私の中には なかったかのように。



続く
























カルロス・トシキ→岡村靖幸→尾崎豊④


私は

尾崎豊さんの歌と

私だけの

小さな世界の中で

自己完結しながら生きていくという術と

その心地良さを覚え

次第に落ち着いていきました。


母親が私に投げつけてくる

言葉、感情、どこまでも満たされない人間独特の

嫉妬や憎悪、罵る言葉、ヒステリー

以前の私はそれらを前に立ちすくみ

バシバシと体にぶち当たる痛みに

耐えきれず踞っていました。


けれど次第に私は

それらを受け止め

受け止め切れなかったものは

後で丁寧に拾い集め

じっと見つめるようになりました。


鬱屈とした気持ちは

日記に書き、 読み返し

まるで第三者のような目線で

自分の周りの出来事を

見つめていました。

日記は尾崎豊さんへの手紙のように

書いたりもしていました。


今思えば私のそれらの行為は、

閉ざされた

自己完結的な 小さな世界の中での

私の 成長、進歩、後退、変化

どれなのかわからないけれど


私が自らの意思で

自分の中から尾崎豊さんの存在を消し去る

前触れだったのです。


尾崎豊さんはその頃

ニューヨークにいたと思います。

私は m3(mind map members)という

尾崎豊さんのファンクラブから届く

封書を心待ちにしていました。

尾崎豊さんがニューヨークから

ファンへメッセージをくれたのを覚えています。


中学三年生になった私は

進路を考えなければなりませんでした。

母親のもとから逃げ出したいばかりの頃は

高校進学をせず家を出るか

遠くの高校へ進学して寮に入るか

と考えたこともありました。


けれど自宅から通えるところに

尾崎豊さんの初期のマネージャーを勤めた方の

出身高校があり

そこを志望校に決めました。

音楽活動をしている人がわりと多くて

自由な校風といわれる高校でした。


その初期マネージャーの方は

尾崎豊さんの親友でもあり

尾崎豊さんを支えた一人であり

私の憧れでもありました。


中学校では私は

仲良しの女友達がいて

四人グループで

みんなそれぞれ好きなアーティストがいて

その話で盛り上がるのが

とても楽しかったのを覚えています。


尾崎豊さんがニューヨークから帰国して


その仲良し四人で出掛けたのが

HIROSHIMA1987-1997

ピースコンサートでした。


コンサートに行くことを許してくれない母親を

説得するのに苦労した記憶があります。


けれど

不思議なことですが

母は というか

母も

尾崎豊さんの歌を

好きでした。


私がベッドホンで聴いていると

自分にも聴かせてほしいと

言うのです。


私の父が尾崎豊さんの歌を

「あんなものは歌じゃない。」

と言った時、真っ先に反論したのは

母でした。


コンサートの収益は、

原爆被災者への寄付金という

チャリティーコンサートだったこともあり

母は行くことを承諾しました。

私の父親と母親は

被爆者手帳を持つ人でした。



初めて出かけたコンサート。

初めて見る尾崎豊さん。

二階席で距離は遠かったけれど

眩し過ぎるくらいのライトに照らされて

ステージに浮かび上がる尾崎豊さんを見ました。

雑誌でなど、写真で見るよりも

子供っぽい人で驚きました。

陽気で明るい人

でもやっぱり悲しそうな人。

そう思いました。



岡村靖幸さんのステージに

尾崎豊さんが飛び込んできて

後に夢の共演と言われる

あのステージ。


二人がまるで犬のようにじゃれ合っていて

微笑ましいというか

ふたりは仲がいいんだな

と思いました。


岡村靖幸さんはデビューしてから

そんなに経ってなくて

まだ知名度は低かったと思います。


尾崎豊さんがそんな岡村靖幸さんの

ステージに飛び込んできたことにより

岡村靖幸さんは

岡村靖幸を知らない人からの

注目や関心を一気に集め

知名度を 想定していた以上に

上げたのではないかと思います。


尾崎豊さんはやっぱり

心優しき優等生だな と

思った記憶があります。


その後の尾崎豊さんは

アルバムの発売が何度も延期され

私はレコード店でその知らせを知っては

不安な気持ちになっていきました。

ツアーが中止になったりもしました。



そして、尾崎豊さんの逮捕のニュース。



私は驚き、動揺しながらも

「ちゃんと学校へ行かなくては。」

と思い、なんとか中学校までたどり着いたものの

教室に一歩入った途端に

クラスの子達から

尾崎豊さんの逮捕の話を振られ

その場に泣き崩れたのを覚えています。


人目もはばからず、わぁわぁ泣いて

クラスの男子から

「訳わかんねぇ、この女。」

みたいなことを言われました。


ー 私だって訳わかんない ー


突然襲ってきた出来事に


私は訳もわからず


ただただ 泣いていました。



続く

カルロス・トシキ→岡村靖幸→尾崎豊③


尾崎豊さん


尾崎豊さんのことを思い出したり

言葉にしようとすると

大抵うまくいきません。

この記事は支離滅裂なものになるかもしれないけど

それでも書いてみようと思います。


尾崎豊さんの歌との出会いは


私が13歳の時だと思います。


当時の私はとてもつらい環境に置かれていました。


つらい環境とは


家庭環境がよくなかったこと。


幼少期から異常に

母親との折り合いがよくありませんでした。

母親はかなり偏った思想や価値観の持ち主でした。

父親と離れて暮らしていたため

私は多感な時期を

その母親のみの監視下に置かれ

養育されました。


私の母はひとりっ子で


両親の望む学校に行き

両親が決めた職業に就き

両親が決めた相手と結婚した人でした。


両親の望みを叶えるため

自分を徹底的に抑えこんで生きてきた母は

我が子に異常なほど「自分」をぶつけてきました。


その姿は子供の私から見ても、大人とは思えない

まるで餓鬼のようでした。


私はたった13歳。


なんの力もありません。


母親を受け止めることもできず


そこから出て行くこともできず


そこに踞るしかありませんでした。


13歳という年齢の無力さを呪い


自分の無力さを呪いました。



母親は


反りの合わない私に当て付けるかのように


姉を特別扱いしました。


私には姉がひとりいました。


姉はとても優しくて、可愛くて

誰からも愛されるような人でした。


私は、優劣をつけるようになりました。


姉は、優。

私は、劣。


でも私の中で考えた場合、私の中の優があるはず。

けれど 考えても考えても

劣、劣、劣、劣、、、、、


私は劣等生だ。



そんな時、姉が


「友達にカセットテープもらったよ。

すごい曲なんだって。」


そう言って聴かせてくれたのが


尾崎豊さんの「シェリー」でした。



その声は 苦しそうでした。


悲しそうでした。


泣いているようでした。


血を流しているようでした。


13歳の私はこの歌の世界を

どれほども理解していなかったと思います。


ただ、その歌から伝わる苦しみのようなものが

私の苦しみに寄り添ってくれた気がしました。



私は貪るように尾崎豊さんの歌を聴きました。

寝食を忘れるほどに。


私の居場所は変わらない。

けれど私の世界は

私のいる暗くて閉ざされた場所は

逃げ出したいだけの場所ではなくなりました。

そこには尾崎豊さんの歌がありました。


彼の歌しかいらない。


私は暗く閉ざされた世界に

彼の歌と閉じ籠りました。

それはとても素敵な感覚でした。

彼の歌はどこまでも純粋で美しく

私のいる暗く閉ざされた世界をも

美しくしてくれました。



優等生。



尾崎豊さんは私にとって完璧な優等生でした。



心優しき美しき、優等生。



劣等生の私がどこまでも憧れた…



続く

カルロス・トシキ→岡村靖幸→尾崎豊②

日常生活にカルロス・トシキさんというオアシスを見出だした私。



1986オメガトライブ、カルロス.トシキ&オメガトライブ のコンプリートBoxなるものがあることを知り、購入し、カルロス.トシキさんに癒されまくる毎日でございました。



これからは、なにがあっても大丈夫!!

だって私にはカルロスがいるもん!!

な生活をしておりました。



ある日、いつものようにyoutubeで、カルロスさんのレアな映像を楽しんでおりますと、下部分にふと「これもおすすめ」となにやら…



80年代繋がりで、なにやらおすすめされている。



目に飛び込んできたのは、サラサラヘアーの可愛らしい男の子。







「だいすき」


岡村靖幸さんです。



私にとって、岡村靖幸さんはとても間接的。


私の30年間という一本の線に、ポツン、ポツン、と間接的に触れてくる。


でも、ポツン、ポツン、なのに、そのポツン、ポツンは、鮮明に覚えていたり。


私は岡村靖幸さんのベイベ(ファン)ではありませんでした。


それどころか私は、当時、岡村靖幸さんが映像を通じて発信してくるものに、随分傷つけられていた記憶があります。


もちろん、私が勝手に傷ついていただけです。


90年代、岡村靖幸さんが、コギャルや援助交際なるものの出現に随分傷ついてしまい、詩がかけなくなったということを私は後に知るのですが、当時の私もそのように、間接的に傷ついていたのだと思います。



私は、懐かしいような、せつないような、悲しいような、こみあげてくるような、不思議な気持ちで再生ボタンを押す。


最高にポップで、最高にピンクな世界で、最高に素敵な岡村靖幸さんが、最高に歌い、最高のダンスを踊っている。


キラキラ… 輝いている… 目が離せない…



岡村靖幸さんて、こんな人だったかな。



こんな人だったんだ。




最高の気分なのに、胸がどんどん苦しくなる。



どんどん最低の気分になる。



なにかひっかかる。



記憶の引き出しを片っ端から開けてみる。








ずっと昔。




岡村靖幸さんが歌ってる…





誰かと歌ってる…










尾崎豊さん



1987年。広島サンプラザホール


HIROSHIMA 1987-1997



沸き起こる大歓声の会場の中




私は見てる。




14歳の私が二人を見てる。




続く